世代交代によって起こる地域レガシー企業のイノベーションとは O-GROWTH TALK “Innovation GROWTH” 書き起こしレポート vol.1
※この記事は世代交代によって起こる地域レガシー企業のイノベーションとは O-GROWTH TALK “Innovation GROWTH” ~書き起こしレポート~ vol.1です
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木原真理子(以下、木原真):皆さん、こんにちは。本日は「世代交代による地域レガシー企業のイノベーション」をテーマにお話を伺います。ゲストには株式会社cotta代表取締役社長の黒須綾希子さん、モデレーターにはOita GROWTH Venturesを運営するKIHARA Commons株式会社 代表取締役の木原寿彦をお迎えしています。よろしくお願いいたします。
まずは、黒須さんに自己紹介をお願いしたいと思います。

黒須綾希子氏(以下、黒須氏):皆さんはじめまして。株式会社cotta代表の黒須綾希子と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます。短い時間ですが、有意義な議論ができればと思います。

私たちは、大分県津久見市に本社を構える企業で、創業26年目となります。cottaというブランド名で、日本最大級の菓子・パン作りの支援サイトを運営しています。扱う商品は約30,000点にのぼり、全国の家庭や事業者に向けて販売しています。

簡単に沿革をお話しします。津久見市はご存じの通り、石灰が採れる資源の豊かな町です。この石灰は、お煎餅などに使われる乾燥剤の原料になります。私たちの会社の始まりは、この津久見で採れた石灰を焼いて乾燥剤に加工する事業でした。
父がこの乾燥剤を全国のお菓子屋さんにメーカーとして販売していた際に、どのお菓子屋さんにも共通して「デッドストック」、つまり大量の在庫を抱えている状況が見受けられることに気づいたのです。

当時のメーカーというのは、1アイテム1ケースからしか販売しないというのが商慣習でしたので、私たちとしては、これを少し小さいロットに崩してあげるだけでも喜んでいただけるんじゃないかということで、 乾燥剤だけではなくて、お菓子を包むための包装資材を崩して、10個から、20個から、また100個からという形で、小さいロットで販売をするというのが私たちのビジネスモデルのスタートになっておりました。これがうまくいきまして、どのお菓子屋さんも小さいお店で経営されてることが多いので、ちょっとずつ必要な分だけ商品が取れるのはありがたいということで、順調に売り上げを伸ばしていくわけです。

けれども、2010年頃、コンビニスイーツブームが到来し、多くの個人経営のお菓子屋さんが厳しい状況に陥りました。これに伴い、私たちも事業の停滞を予感し、新たなターゲット層として一般消費者に目を向ける必要性を感じました。
この時、eコマースの普及期であったことから、従来の販売形態からオンライン販売へのシフトを決断。趣味でお菓子作りを楽しむ家庭や、教室を運営する方々をターゲットに、新しいビジネスモデルを展開しました。

そのタイミングで、今で言うとインフルエンサーというふうに呼びますけれども、当時のカリスマブロガーの皆様と大量にパートナーシップを結びまして、すごく力を貸していただいて、B to Cの事業を立ち上げていきます。

そして、停滞していた売り上げもB to Cの売り上げが伸びたことでもう一度事業成長できるわけですけれども、このタイミングで、私たち、最初は福証さんにお世話になっていたんですが、東証のグロースに鞍替え上場をし直しております。

ただ、B to Cもそんなに簡単に行かなくて、順調な売り上げ増が止まったタイミングがあるんですけども、ここで何が起きたかというと、先ほど申し上げた通り、大量にケースに入っていたものを小さいロットに崩すというのが私たちのビジネスモデルの単なる強みだったので、それが10年も15年も経つと陳腐化していまして、周りの競合たちがみんなやってたんですね。つまり商品力・私たちの強みが陳腐化してなくなっていたというのが私たちの停滞の種だったわけですけども。
そこで、私たちは商品開発をして、cottaでしか買えない商品を作っていくしかないなということで、それまでは問屋のポジションで大量に仕入れたものをちょっとずつお分けするというのが私たちの強みだったものから、メーカーポジションに入っていってcottaでしか買えない商品を大量に作っていきました。
これによってもう一度、成長軌道に乗せることができまして、順調にコロナ禍の追い風もあり、成長していくわけですけれども、 直近ではコロナ特需の剥がれ落ちというのがありまして、100億を目指していた事業だったんですけれども、巣ごもり特需が剥がれ落ちて、eコマースもすごく苦しいフェーズにどの会社も入っていると思うんですけれども、私たちもご多分に漏れず、次の一歩を探している状況です。

実際、これまで創業期からずっと増収事業だったんですけども、前期・前々期とちょっと足踏みをしている状況で、さあ次の一手は何にしようかということを今チャレンジしている状況であります。
ということで、私の世代になりまして、第三創業ぐらいなんですけれども、パーパスも作り変えて、気持ち新たに次の価値創造していこうというフェーズになり、私の父が作った会社なんですけれども、私が2代目で、3年前に事業継承して頑張っているところです。 簡単ですが以上になります。
木原真:本当に分かりやすい事業の説明をありがとうございました。黒須さんに聞いてみたいと思う「イノベーションのポイント」がいくつかあるのですが、まずは、見てくださっている方の中にアトツギの方も多いと思いますので、アトツギという視点から少しお話を伺っていこうと思います。先ほど、お父様が創業された会社だというお話がありましたが、黒須さんが入られたのは何年ぐらい前ですか。
黒須氏:そうですね。さっきB to Cに事業をピボットしていったと言った、あのタイミングです。当時丸の内OLをやっていたんですけども、父に「会社がこのままだと停滞するので、新しい挑戦をしたいんだけど一緒にやってみないか」ということで声かけてもらったのが社会人3年目の2010年でした。そのタイミングにジョインしています。
木原寿彦(以下「木原」):なんで声がかかったのでしょうか。
黒須氏:当時、情報格差がすごく深刻な私たちの課題でした。当時は、現在のように情報が平等に得られる時代ではありませんでした。
そのため、父はeコマースを大分の片田舎から立ち上げることに大きな課題を感じていたようです。そこで、事業を始めるには東京に拠点が必要だと考えたようで、唯一のツテであった東京でOLをしていた私に声をかけたのだと思います。

木原真:元々お父様の会社を継ぐイメージはありましたか。
黒須氏:本当にこれは嘘ではなく、父の口癖が「世襲はしない」だったんです。父がこの会社を立ち上げたのは、私が中学生の頃でした。それ以来、中学生から大学生に至るまで、「世襲はしない」と四六時中言っていたので、私も会社を継ぐなんて考えてもいませんでした。ただ、父が新しいチャレンジをするという話を聞いて、「ちょっと面白そうだから立ち上げだけ手伝ってみようかな」という軽い気持ちで入社しました。
木原真:アトツギの方々には、将来家業を継ぐと決めている方もいれば、継ぐかどうか迷っている方、または全く別のキャリアを選びつつ、どこかのタイミングで家業を引き継ぐことになった方もいらっしゃいますね。黒須さんの場合、どちらかというと後者で、全く別のキャリアを歩んでいたところ、たまたまこのタイミングで戻ってきた感じでしょうか。継ぐかどうかは決めずに、立ち上げを手伝おうというスタンスだったのでしょうか?
木原:立ち上げを手伝うとしても、当時勤めていた会社を辞める必要があったわけですよね。それって普通はかなり覚悟が必要だと思うのですが、話を聞いていると、あまり深刻に構えず、むしろライトな感覚でチャレンジしたようにも思えます。そのあたりはどうだったのでしょうか?
黒須氏:私は新卒でインテリジェンス(現在のパーソルキャリア)に入社したのですが、最初から3年を一区切りにしようと考えていました。3年経ったら転職や起業を視野に入れようと思っていたんです。そのタイミングで父から声をかけられました。ちょうど3年間、パーソルでしっかりキャリアを積み、その上で4年目に新しい挑戦をする形になったので、私も自然と納得できたんです。
木原真:お父様も、そのタイミングをよく見計らっていらっしゃったんですね。もともと「アトツギ」として、家業を継ぐことを考える場合、後継者だからこその良い点もあれば、スタートアップとは違ったご苦労もあったのではないでしょうか。実際、黒須さんがアトツギだったからこそできたことや、逆に苦労されたことは何ですか?
黒須氏:それは一言で言えば”表裏一体”ですね。実は、世襲が決まるほんの1年前まで、継ぐつもりはまったくありませんでした。でも、父の会社である以上、どこかで「自分ごと」として強く意識していたのも事実です。入社した瞬間から、自分の事業だという覚悟ができていました。父と私はまさに一心同体のような感覚で、「父の事業は私の事業だ」という意識がありました。
だからこそ、寝る間も惜しみ、損得勘定を抜きに全力で取り組むことができたと思います。この覚悟でスタートできたのは、やはり私が娘であり、家族だったからだと今振り返って感じますね。
木原氏:全国のアトツギを見ても、黒須さんのようにそこまで覚悟を持って取り組める方はなかなかいないと思います。それはご自身の性格や能力によるものだと思いますか?
黒須氏:大きいのはやはり育った環境だと思います。私の祖父も起業家で、大分県津久見市で布団屋を営んでいました。母はその商店を継ぎ、商売人として私たちを支えてくれました。そして父は脱サラして起業しました。そんな環境だったので、家の中ではお金や商売の話が日常的に飛び交っていました。
父が脱サラして起業する際の覚悟や苦労も幼いながらに感じていました。例えば、父は毎朝3時台に会社に出勤し、身を粉にして働く姿を見ていました。母が布団屋の収入で家族を支え、私たちを学校に通わせてくれました。
そうした両親の姿を間近で見て育ったので、商売の厳しさや、事業にかける命の重みを深く理解していました。この経験が、私に最初から覚悟を持たせてくれたのだと思います。
木原:これまでにも数々の困難があったと思いますが、それをどう乗り越えてきたのか、また頑張る原動力はどこにあるのか気になります。結局は、覚悟があるからこそ乗り越えられるという部分が大きいのかもしれませんが、そのあたりどうでしょうか?
黒須氏:振り返ってみて、この10数年間、数々の困難を乗り越えられた理由は、根底に「これは私の会社ではない」という意識があったからだと思います。
もし自分の会社だったら、もっと手を抜いていたかもしれません。例えば、事業がうまくいかなくても「自分の責任だから」と割り切って、少し停滞しても構わないとか、子どもが生まれたから数年休もうとか、苦しい時期に会社を売ってしまうとか、そういった甘えが出ていた可能性があります。
でも、これは父の会社であり、さらに途中から福岡証券取引所(福証)に上場し、資金調達も行ったことで、株主の会社になりました。その時点で、「たまたま私が代表を任されているだけ」という強い責任感が芽生えました。この責任感こそが、どんな困難にも真正面から立ち向かう原動力になっていると思います。
木原:そのような責任感は、最初からお持ちだったのでしょうか?
黒須氏:最初は、東証に上場してから「公の会社」だという覚悟が決まりましたが、それ以前はどちらかというと、「父や創業メンバーが作り上げた会社を絶対に裏切りたくない」という思いが強かったですね。
木原: お父様や創業メンバーの方々への感謝の気持ちがあった、ということでしょうか?
黒須氏:そうですね。その感謝の気持ちは今でも非常に強いです。私はゼロから事業を立ち上げたわけではなく、既にある基盤を引き継ぎ、そこから新しい挑戦をさせていただいただけです。ゼロイチを生み出せる人たちには、本当に尊敬の念を抱いています。そして、今の事業の基盤を築いてくださった方々への感謝の気持ちは、決して忘れたことがありません。
木原:「感謝はあるよ」とさらっとおっしゃいましたが、実は先代とうまくいかないケースも多いと耳にします。感謝の気持ちが欠けてしまうことが、問題の一因になっているのではないかと感じます。先代への感謝があるからこそ、頑張れるし、覚悟もできる。感謝の気持ちは、先代に対してだけでなく、これまで会社を支えてくれた従業員や、今も支えてくれている方々に対しても重要ですよね。その感謝が「また支えたい」と思わせる力になるのだと思います。これは、私自身の経験や周りを見ても強く感じることです。
黒須氏:そうですよね。若い頃は正直、「私がやったんだ!」みたいな気持ちになることもありました。ただ、父が入社時から徹底して「特別扱いしない」という方針を持っていて、それが大きかったと思います。例えば、私が東京で働き始めた頃、手取りがたった15万円くらいで、「いやいや、これでは暮らせませんけど?」と正直思いました。給料が前職から半減していたので、驚きましたね。でも、父は「娘だからといって特別扱いはしない。先輩たちと同じように、貢献して初めてフェアに評価する」というスタンスだったんです。
今振り返れば、これは父なりの姿勢を示していたのだと思います。先輩たちや創業メンバーに失礼があってはいけないし、「お前は特別な存在ではない」という考えを私にしっかり植え付けてくれました。これが、私の働く姿勢や考え方を形作ったと思います。
また、「綾希子さん、津久見の初任給と同じ額で東京で働いてるらしいよ」といった噂が社内に流れると、周りの人たちも嫌な気分にはならないですよね。「あの人も大変そうだよね、頑張ってるね。」みたいな雰囲気になったことで、私も周囲と一緒に働きやすかったんだと思います。
父が「結果を出すまではフェアであるべきだ」という姿勢を徹底してくれたおかげで、特別扱いされずに、納得して働くことができました。

木原:お父さんも本当に素晴らしいですね。
木原真: お父様の哲学やポリシーが、今の事業成長にも繋がっているように感じます。これまで数々の困難があったと思いますが、その中で最も大変だったこと、辛かったこと、行き詰まった経験などはありますか?
黒須氏:やはり、直近の2期で減収したことが一番辛かったですね。本当に苦しかったです。それまで先代たちが積み重ねてきた「増収」という歴史を、私の代になった瞬間に崩してしまったわけですから、責任の重さを痛感しました。その時、自分の中で気づいたのは、会社や父が築いてきたものを「守らなければ」という気持ちが強すぎて、お客様を十分に見ていなかったということでした。
これまで話してきたことはポジティブな部分が多かったですが、振り返ると、その責任感が裏目に出てしまった部分もありました。「会社を守りたい」「これまでの慣習を継続させたい」という思いが強すぎて、本当に大切なお客様や従業員を第一に考えられていなかった。そのことに気づかされた時は、本当に大きな葛藤がありましたね。
木原:上場している会社ならではのプレッシャーや責任も、感じるところがあったのかもしれませんね。
木原真:創業から26期の間にも、事業のピボットや戦略的な意思決定が多くあったと思います。その中で、cottaさんが上場を決断された背景には、どのような思いがあったのでしょうか?大分県内でも上場企業はまだ少ないですし、どのような意思決定があったのか興味があります。
黒須氏:それは、やはり父の強い思いが原点にあります。父は「自分が生まれ育った大分県津久見市から上場企業を作りたい」という信念を持っていました。それは地元への貢献という形で、父の人生のビジョンそのものだったんです。私もその思いに賛同していましたし、会社を通じて地域に貢献することは私たち家族の共通の目標でもあります。
木原真:本当に素晴らしいですね。津久見の地域資源である乾燥材の製造からスタートし、時代のニーズや市場に合わせて事業を進化させつつも、地域への思いを大切にされている。だからこそ、本社をずっと大分に置いていることにも大きな意味があるんですね。
黒須氏:もちろんです。父は幼い頃に父親を亡くし、母親(祖母)が布団屋を継いで女手一つで育てられていました。津久見市の皆さんがその布団を買ってくださったおかげで、父も家族も支えられてきたという思いがすごく強いんです。その恩を返したいという気持ちが、父の中には根強くあります。
だからこそ、津久見市に本社を置き続けたいし、ここからイノベーションを起こしていきたいという強い思いがあります。
木原真:地域への深い感謝や愛が、その思いの原点にあるのですね。ECやITの事業は、どこでも運営できる可能性がある一方で、大都市圏に拠点を移して人材を確保しようと考える企業も多いですよね。それでも、大分に本社を置き続けるのは、そうした実利を超えた地域への強い思いがあるからこそですね。
津久見市から上場企業が生まれたというのは、地元にとっても大きな希望だと思います。
––––––– vol.1 終わり
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